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はじめに:医学英語コミュニケーション

J.P. バロン
東京医科大学国際医学情報センター 教授
2005年9月28日

はじめに

現在の日本における医学英語コミュニケーションあるいは医学英語論文の作成状況、また日本における医学英語教育について理解するためには、歴史的な知識がある程度必要であると思います。

1960 年から1980 年代の日本

私が最初に来日したのは1960年代、正確には1969年の8月でした。東京医大との関係は、東京医大の名誉教授である早田義博先生のご縁で、翌年の1970年から始まりました。しかし、1960年代の日本についてもある程度、把握していると考えております。

1960年代の日本

まず、当時はかなり臨床実績が増えて、例えば臓器移植、気管支ファイバースコープやその他ファイバースコープの開発など、画期的な仕事が日本で行われるようになりました。しかし、日本からの英語での論文、特に名前の通った雑誌での論文発表は極めて少ない状況でした。もう一ついえることは、日本国内の臨床的な実績がどんどん増えるにつれて、国内で研究会や学会が次々と設立されたことです。肺癌学会もそうですし、当時の胸部疾患学会(今の日本呼吸器学会)もそうです。また、60年代には戦後の厳しい状況が少し改善し、日本からの研究者が学会発表をする機会が増えることになりました。

1970年代の日本

70年代の日本を見ますと、臨床分野がますます発展し、それにつれて外国が日本の医学界を見直し始めたように思います。とくに肺癌がそうです。論文の投稿を希望なさる先生が非常に増え、またそれにつれて外国学術誌への論文投稿が極めて難しいものだということが分かり、フラストレーションが高まるようになりました。1960年代から増えつつあった日本の研究者の海外進出が盛んになるにつれ、国外の研究者・臨床家とのコミュニケーションも増えていきました。特に、1972年のドル・ショックで初めて1ドル360円ではなくなり、外貨が手に入りやすくなり、外国旅行が安くなる時代が始まりました。また70年代の注意すべき点は、日本国内で初めて国際医学会の設立がなされたことです。世界気管支学会、国際食道疾患学会などがその例です。

1980年代の日本

80年代に入りますと、初頭にEnglish for Medical Purposes (EMP)やMedical English(医学英語)という用語が少しずつ登場し始めました。しかし、当時は臨床の先生でも、Medical English という概念に対してかなり反感をもたれる方が多かったことを記憶しています。また、80 年代前半に医学外国語教育研究会を設立する試みがありましたが、失敗に終わりました。しかしながら、80 年代後半には、少しずつ、医学部の学生またはスタッフの間で、語学教育に対するユニークなニーズが次第に認識されるようになりました。
この80年代の半ば頃、Index Medicus に掲載されている雑誌への日本からの論文の数が、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの合計の論文の数を上回りました。もちろん、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの人口は合わせても日本の人口の半分以下ですが、これらの国々は母国語がほぼ英語であり、また西洋の科学研究の背景と伝統を持っていることを考えれば、この出来事は大変画期的なことであったと思います。

1990年から2000年代の日本

1990年代の日本

1980年代に初めてみられた現象ですが、90年に入っても、Index Medicusに掲載されている雑誌での日本からの原著論文の数が5年ごとに50%ずつ上がっていきました。
この傾向は80 年代から90 年代の終わりまで続きましたが、1998年頃から年間総数が32,000件程度で頭打ちになりました。以来、この件数は現在まで毎年ほとんど変わっていません。90年代のもう一つの特徴は、医学英語コミュニケーションに対する関心がだんだんと高まり、同時にEnglish for Medical Purposesの教育者の育成についての関心も高まり、そのための研究会や学会が設立されたことです。初めはMedical Interpreters and Translators Association という研究会が1992年頃に設立され、その後、Japan Society for Medical English Education (日本医学英語教育研究会、JASMEE)が現れ、3,4 年前にJASMEEは日本医学英語教育学会に名称を変更しました。特に、このJASMEE の場合は、臨床や基礎の先生も語学の先生も出席し、かなりの熱意を持って医学英語教育の行方を討論することになりました。もう一つ重要な点は、私事ではありますが、1991年、東京医科大学において、国際医学情報センターが設立されました。その目的は、東京医科大学のスタッフの論文投稿、国際交流、共同研究などの促進です。また、全国の医学部にEMP教育を設立することについて、あらゆる方面の関心が高まってきたことも事実です。

2000年代の日本

2000年代に入り、まず注目しなければならないのは、国立大学の法人化であると思います。このことが、以前からの風潮に加え、ますます業績重視の社会を生み出すという意見を持っている方もいらっしゃいます。こうした中で、特に若い先生方の間で、業績をいかに作ればよいかということについての関心あるいは不安が出てきました。また、90年代に初めて医学部内において国際医学情報センターが設立されましたが、2000年代に入ると、少しずつそうした機能を果たす組織が他にも誕生するようになりました。ちなみに、学内の国際医学情報センターのような組織というと、世界初のものはアメリカのメイヨー・クリニックです。約100年前の1908年にミネソタ州ロチェスターにある同クリニック内にできましたが、メイヨー・クリニックが世界的に有名であることの一つの理由が、このメイヨー・エディトリアル・サービスであると確信しています。もう一つの2000 年代の特徴は、EMP教材、特にEMP教材を作る会社、またそのラーニングシステムを作る会社が台頭してきたことです。また、特に文部科学省が、特色のある効果的な専門英語教育に非常に高い関心を示し、大きな援助をしてくださるようになりました。さらに、医科大学の中で、もっと効果のあるEMPコースの設立が必要であるという声が上がるようになりました。また、最近、卒前レベルでの交換留学、海外研修が次第に増加しています。毎年、たくさんの6年生を海外の研修に出す医科大学が増えつつあります。これと同時に、80年代から海外にもみられましたが、クロス・ポリネーション(他家受粉)、言い換えれば相互交換作用という現象が、日本でも大学院レベルで目立つようになりました。また、数年来の傾向ではありますが、2000年代に入り、インターネットの利用が爆発的に拡大しました。ここまでで、現在の日本の医学英語コミュニケーションの環境と歴史がだいたいこれでお分かりになったかと思います。

1970年代後半までの外国

1970年代の日本

外国では、1970年代まで次第に英語で発表することの重要性が増えてし、それに伴い、特にアメリカでは、英語での発表活動をサポートできるようなインフラストラクチャー(基盤)、つまり医学秘書や病院事務ができる人材の育成の重要性が認識され始めました。1960年代には、legal secretaryのようにmedical secretaryという言葉がすでに存在していました。1970年代には、大規模で国際的な医学組織や学会の役割が拡大するという現象が見られました。例えば、既存のWorld Health Organization やUICC(フランス語でUnion Internationale Contra le Cancer、国際対ガン協会)などです。同時に、1960年代からは、“Publish or Perish”という現象が強まってきました。意味は、「業績をつくるか、さもなくば消えるか」。もちろん、このPublish or Perish という現象に対して、かなりの反感を持つ学生もいました。私も1960 年代に大学生だったため、つくづくそう思いました。なぜなら、学生の教育に時間をかけずに、自分の研究論文を数多く出すため部屋に閉じこもり、学生と接しない人が順調に講師、助教授、教授になり、学生とよく接し、教育に時間を割く人は、業績の数が少ないという理由であまり出世できなくなるからです。アメリカには、ほとんど講師になればずっとその大学に残るという日本のような習慣がなかったため、業績がなければ数年後に別の大学に移らなければならなかったのです。

もう一つ大事な出来事として、1978年のカナダのバンクーバーでの集会の結果、Uniform Requirements(統一規定)ができたことがあります。これは、医学論文の出版や雑誌の出版の歴史上、決して無視できない出来事です。統一規定の正式名称は、Uniform Requirements for Manuscripts submitted to Biomedical Journals(生物医学雑誌への投稿に関する統一規定)と言います。この規定は、4~5年ごとに少しずつ改定されており、医学出版のバイブル的な存在です。

1980年から2000年代の外国

1980年代の外国

1980年代の外国で注目すべきことは、EMPのための教育や教材の開発が急速に進められた点です。また、1980年代はじめには、Impact Factorという概念が、医学論文や医学雑誌に応用されるようになり、これによって1960年代後半からの“Publish or Perish”という風潮がいっそう厳しくなりました。もう一つ注目すべきは、卒前教育を全て一つの施設で行なうと学生の視野があまり広くならないという考えから、卒前の国際交流・留学・研修などの促進が増えた点です。また、大学院レベルでの他家受粉(cross pollination)の増加もよく見られました。この頃、東京医科大学や国立がんセンターなどの国内の医療機関に、ヨーロッパやアメリカなど外国の医師が、気管支鏡を勉強しに留学する動きがこの傾向を表しています。1980 年代の後半には、インターネットの使用が爆発的に拡大されました。1980 年代と2000 年代の外国では、国際的な研究や協力の増加と共に、例えば研究資金の一部をアメリカのNIHから出し、外国の研究施設と共同研究をするという現象が目立つようになり、いわゆる医療・医学教育のグローバル化時代に入りました。これに伴い、卒前教育レベルでの学生の国際交流が大幅に増加し、大学院でも国際交流が急速に増加しました。インターネットの発達に伴い、オープン・アクセス化という現象も現れてきました。このような歴史的背景を見ますと、日本の医学会が、医学論文や医学情報を海外に発信する努力が必要な時代になったことが分かります。

ちなみに、他のアジアの国々や南米、ヨーロッパ諸国も、同じ語学のハンディキャップを持ち、アメリカなどを追いかけようとしていますが、グローバルなアプローチでなければ、医学英語コミュニケーションは、非常に厳しいと言えます。

本サイトの目的

本サイトの目的

主な目的:
日本の医療専門家による医学コミュニケーションの向上と、医学分野における アカデミックなキャリア形成を促進する

このサイトの一番の目的は、日本の医療専門家による医学英語コミュニケーションの向上と同時に、医学分野でのキャリア形成をスムーズにすることです。

目的を達成するための6つのステップ:

この目的を達成するためには、6つの局面があると考えます。一つは、日本語でも英語でも、今までに論文を出した経験のない方のために、英語論文をどのように出せばよいかというサポートを提供します。

もう一つは、ある程度論文投稿の経験がある著者に対して、アクセプト率の向上やアクセプトされるまでの労力を軽減する方法を提供します。もう一つは、かなり英語論文の業績のある著者を対象に、より高いインパクトファクターの雑誌を狙うためや、なるべくスムーズに速くアクセプトされるようにするコツを提供します。もう一つはピア・レビューシステムをよく理解することで、著者がEditor-in-Chiefの手紙を解釈し、査読のコメントに効果的に返事することができるなど、迅速なアクセプトにつながるテクニックに関するコツを提供します。また一方で、査読を頼まれた方に対しては、よりよい査読が出来るようなアドバイスを提供します。

さらに、口頭発表の仕方と、国際学会での効果的なふるまい方について解説します。アカデミック・キャリアの形成とは、ただ原著論文を連発することではなく、国際学会に参加し、知り合いを作り、同僚の話を聞き、発表をし、会話を交えることも含みます。国際学会で知り合った方が、将来自分の査読員になる可能性もあるのです。

© J. Patrick Barron

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